「Boy's Surface」
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主人公として登場する“僕”は、正確にはわれわれ読者とテクストの間に介在する一種の変換。レフラー球そのもの。
小説を読んでいる時、結構な確率で私はトルネドを彷徨っていることが多い。特にSFにおいては。実際、本作を読み返している途中でも作品そっちのけでトルネドのなかで楽しんでしまっていることが多かった。
定理自動証明
他にもなにかコメントすることがないかどうか考えていたが、たぶんそれを厳密に行っていくと、この作品自体になるだろう。
なぜ私はこの作品を物理学によって理解しようとするのか?
私が物理学帝国主義者だから.
グラショウは,自然科学の階層性をウロボロスの蛇を用いて説明した.極大である宇宙を記述する宇宙論と極小である素粒子を記述する素粒子論はともに物理学である.その狭間にある天文学,天体物理学,地球物理学,地質学,生物学,化学,物性物理学,原子核物理学はその両端から物理学への還元に晒されており,実際,地球物理学と生物学までは物理学に侵略されている.
究極的に,全てのものは,記述に用いていいルールを記述する数学と,モデルを数学で記述する体系である物理学と,それ以外の科学でないものの3者に還元されるだろう.このような主張を,(極端な)還元主義ということにする.
私は,還元主義を信奉し,その究極点である素粒子論を専攻していた者である.物理学という体系を過信しており,この世の全ては物理学によって記述されるべきであると盲信している(物理学帝国主義).無論,文学も物理学によって記述されるべきである.
とはいえ,この姿勢には無理がある(要は,用いられるべきスケールが異なりすぎる).だが,円城塔作品は,物理学を知らない者には読み取れず,逆に物理学を知っている者なら必ず読み取ってしまう情報が埋め込まれている.実際に円城塔作品を一種の自然現象として解釈すると,そこには明確に物理がある.
明らかに物理が見える自然現象に対して,物理をやってはならないとは私は教わっていない.むしろ,物理に見えない物に物理を見出し,物理学として体系化するように叩き込まれている.
レフラーの主張は,円城塔が感覚的に好む態度を誇張したものではないか?
過度に統計力学的描像,過剰な経験主義,過剰な帰納主義
糖衣としての自然現象(内在物理学,これも過剰な経験主義の産物か)
外からは確認できないが内部に論理が蠢く系,プログラミングにおけるカプセル化? 題名
実在する数学の概念,ボーイ曲面(Boy's Surface)に由来する
(0, 0)
p.12, l.11「数理神学者たち」
聞き慣れない用語だが,現代日本にこれを研究していると主張する研究者が実在し,入門書も出版されている.
落合仁司, 『数理神学を学ぶ人のために』, 世界思想社, 2009
なお,当該書籍の主張は破綻しており,またご本人の主張もしばしば破綻しているため,熱心に読む必要はない.
上記の例は単なる言葉遊びであるが,一方で,数学と神学・哲学の融合を試みた人物は史上多くあった.最も有名なのは,数学によって神の存在証明を試みたスピノザだろう.スピノザの主著『エチカ』は,その正式名称を『幾何学的論証の秩序による倫理』という.
他にも,スピノザに多大な影響を与えたデカルトは数理的世界観を元に人間を含む自然全てを記述しようと試み,またスピノザの同時代人で同じくデカルトから多大な影響を受けたライプニッツもまた,数学と神学・哲学の統合を試みた人物であった.
数理文学とか言ってこんなことをしている身なので,気が気ではない
p.12, l.12「カエサルのものはカエサルに.」
新約聖書に書かれているイエス・キリストの言葉.その階層の現象はその階層の物理によって理解されるべきである(=適用外の理論を適用してはならない)と解釈すれば,階層性問題が自然に連想される.これは直後の「計算のものは計算に.」という言葉をよく説明する.
p.13, l.1「僕は視線によって生成されて,〜」
p.13, l.4「僕は僕のみに生くるに非ず.」
もちろん元ネタは“人はパンのみに生くるものにあらず”.旧約聖書のモーセの言葉,そしてそれを引用した新約聖書のイエスの言葉に由来する.
神学ネタがからむ作品だからか,聖書ネタが多い.
p.13, 6-「数学者は僕をモルフィズムと呼ぶ.〜」
このモルフィズムは,数学の一分野である圏論における射(morphism)を指す.
(射の定義)
(自然変換の説明)
ベーシック圏論から引いてくる
p.13, l.15-16「より正確にいえば,そう言ったディテールはあなたと僕たちの間で生成されるものであり,〜」
p.14, l.11「レフラー球.」
本作のキーガジェット.モルフィズムであり,この作品の語り手自身であり,テクストと読者の間に横たわる“青く澄み透る高次元球体”である.
自身から自身への変換を恒等変換といい,これは圏論における射の定義に含まれる.これが可能であることからも,モルフィズムは確かに射であることがわかる.
円城塔本人による解説
架空の数学者アルフレッド・レフラーに由来する,架空の数学的対象として登場する.このアルフレッド・レフラーという人名は,数学者・哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド,数学者アルフレッド・タルスキ,生理学者・物理学者オットー・レスラー,数学者ミッターク・レフラーを混ぜ合わせたものであることが「What is the Name of This Rose?」で明かされている. ここで,偶然ここに帰されることになってしまった面白い挿話を紹介したい.実在の神学者,深井智朗の研究不正に関する話である.深井は,“神学者カール・レーフラー”なる人物の著作を紹介するとともに,それらの著作を論拠として研究活動を行っていた.しかし,他の研究者から“神学者カール・レーフラー”は実在しなかったとの指摘があり,深井の大規模な研究不正が発覚するという事件が本作の発表後(2019年)に発生した.実在しない理論をこねくり回す作品に登場する実在しない数学者の名前が,実際の研究不正に登場する実在しない神学者の名前に酷似していることは,偶然ではあるが非常に興味深い.
実際のところ,2009年頃から深井には研究不正の疑惑があり,当時の学術誌の書評などで指摘はされているため,円城塔本人が気づく余地はあるのだが,この偶然の一致の因果関係や意図については不明である.
(5, 1)
p.18, l.8-9「偉大な数学者として名を上げるにはここが正念場という年齢〜」
24歳という年齢は修士〜博士にあたる年齢だが,理論物理学・数学などの理論屋は学者としての最盛期を迎える年齢である.
オイラーが数学者として活動し始めたのが20歳ころ
ガウスが素数定理を予想したのが15歳
ガロアがガロア理論の基礎的な貢献をしたのが17歳から20歳
アーベルが病死したのが27歳
リーマンが多様体を導入したのが28歳
チューリングがチャーチ-チューリングの提唱を構想したのが23歳ころ
ハイゼンベルクが行列力学を完成させたのが24歳.
ディラックが量子力学における交換関係と古典力学におけるポアソン括弧の類似性を見出したのが23歳,波動力学と行列力学の等価性を証明したのが24歳.
アインシュタインの奇跡の年(特殊相対論,ブラウン運動,光量子仮説)が26歳.
シャノンが修論で電子回路を考案したのが21歳
ゲーデルが完全性定理を証明したのが24歳,第一不完全性定理を証明したのが25歳.
湯川秀樹がπ中間子を予想したのが28歳.
逆に,朝永振一郎は年下の湯川秀樹が目覚ましい活躍をする一方,自身の主要な業績であるくりこみは41歳時のものと遅咲きであり,優秀な周囲と自身を比較して自信喪失している手記が残っている.
ここに挙げたものは人類史上最高峰の上澄みといえる人物たちだが,現代においても,理論屋として大学院に進学する者は,教師と学生ではなく,同じ物理学者として共同研究を行うという形で研究生活を送ることになる.
少なくとも,東北大ではそうだった
私は実験屋だったので状況はやや異なる
p.18, 11-「国際会議の参加のために立ち寄ったパリでの出来事であるというのだが,〜」
これは嘘のようで本当の話.物理学者や数学者の自伝などを読んでいると,裏付けのできない記述がやたら出てくる.特に,20世紀前半のヨーロッパを拠点としていた学者だと,そもそも国境を越えるのが割と簡単で多国籍なメンツになることが多く,また戦後処理や亡命でころころ国籍が変わるものがいたりと,判別が難しい情報が多い
ドイツのロケット工学者として有名なヘルマン・オーベルトは,二重帝国領ルーマニア出身で,学者としてはドイツ,生業の教師としてはルーマニアを拠点としていた.
p.19, l.9-10「レフラー恋に落つの方に接した知人たちの応答が一様に,〜」
物理学科あるあるかも.(失礼な話だが)人に興味がなさそうな教官が妻子持ちだったときの反応がこんな感じ.
p.19, l.12「バナッハ空間」
実在の数学上の概念.
(バナッハ空間の説明)
p.20, l.8-11「恋人と数式,どちらを優先するかという問いが〜」
数理科学系の人間の言い回しそのもの.
p.20, l.16-17「この光景の裡に〜」
身近な光景から数理科学の理論を思いついたエピソードは多数ある.
ニュートンのリンゴと万有引力
湯川秀樹の木漏れ日と中間子
アインシュタインの手鏡と特殊相対論
p.21, l.5-7「史上最初に作成された顕微鏡のレンズが〜」
最初の顕微鏡を作った人物には諸説あるが,レーウェンフックが微生物が見れる精度の顕微鏡を作った最初期の人物であることは確かだろう.
p.23, l.2-「アルフレッド・レフラー(米,1983-2043)は生来盲目の数学者として〜」
実在した生来盲目の数学者として,フランスのベルナール・モランが挙げられる
後天的に盲目となった数学者としては,オイラーとポントリャーギンが挙げられる
(1, 2)
p.24, l.3-「レフラー球を紙面に〜」
レフラー球についての復習.ここの描写からも,レフラー球が射であることが支持される.
p.25, l.1「ネッカー・キューブ」
ネッカーの立方体とも.立方体の格子を表す線を区別せず全て書いたもの.
p.25, l.2「ジャストロー図形」
ジャストロー錯視とも.兎にも鴨にも見える錯視図形のこと.同じ名前がつけられた,同じ大きさの扇形図形を並べると大きさに差異があるように見えるものもある.
p.25, l.3「映像が切り替わる時間間隔はΓ分布に従い,〜」
要調査
感覚的には正しそう
ガンマ分布は平均確率λで遷移する確率分布なので
p.25, l.5-7「もとの図形はただの描かれた線に過ぎず,固定されて動かない.〜」
この記述は正しい.いま,対象$ O_{object},観測者$ O_{observer},観測者による観測を表す演算子$ Lを導入し,観測行為という系を記述する.
$ S(t) = O_{object} L O_{observer}
ここで,対象である図形は時間発展せず,演算子$ Lも時間発展しないので,時間発展項を入れられるのは観測者しか残らない.したがって,時間発展するのは観測者(の脳内の電気信号)である.
p.25, l.9-「見ているはずのものが実は見えていない〜」
ゲシュタルト心理学などに通じる記述.特に文字に対して生じるゲシュタルト崩壊と呼ばれる現象は,のちの「文字渦」の発想に直接的に結びつく.
p.25, l.16-17「視覚情報処理系とは,とりあえず進化の荒波を進むことができる程度のものであればよく,〜」
グールド,ホフスタッター,ドーキンスは90年代に流行った科学読み物ライターであり,特に複雑系では結構人気な印象
これにウルフラム,スマリヤン,コンウェイを加えるとほぼ完璧.
p.25, l.17-p.26, l.1「ここにつけこむ余地があり,実際につけこまれており,つけこむことが可能である.」
極めて円城塔らしい一文.最後につけこむことが可能であると改めて言及するのはやや意味不明に見えるが,これは「ここに(原理上)つけこむ余地があり,(自然現象として)実際につけこまれており,(これを利用して意図的に)つけこむこともまた可能である」という意味である.この背後には,物理学的に可能なことは必ず実現されるものであり,実際にそれは自然界で観測されうるし,われわれはそれを利用することが出来るという論理がある.
「ここに(物理学の机上の空論としては)つけこむ余地があり,(実際の自然現象として)実際につけこまれており,(工学的に)つけこむこともまた可能である」としてもよい.
この例としては,核分裂反応が挙げられる.核分裂は物理学的に予言されており,実際にそれはガボンの天然原子炉という形で自然界で観測されうるし,われわれはそれを核分裂炉として利用することができる.
確率的円城塔生成機関も似たような文字列を生成するが,それはこの言い回しの言葉遊び的な部分のみを確率的に模倣しただけであり,背後に隠れている数理と論理が欠落している.
理学的に予言されており,実際に自然現象として確認されるならば,技芸に落とし込める,というのがこの場合での数理と論理.
p.26, l.6-「レフラー球は,その基盤を顕とすることのない錯覚を引き起こすと知られた,〜」
(内在物理学の概要説明.われわれが観測する“対象”とは,その対象の形而上学的な真の姿そのものではなく,形而下の観測可能な姿に拘束される.)
レフラー球について気づくのが難しいのは,“真空”や“空気”といったものの実在や科学的議論が遅れた原因に近いと思う.
トリチェリの真空をこぞって議論していた時代がある,というのは現代からすると驚くべきことにように思う.
逆に,エーテルが存在しないということが厳密に証明されたのは,改めて考えてみると極めて驚くべきことである
p.27, 5-8「あなたは現在,紙面に広がる蜘蛛の巣めいた基盤図形を覗き込んでいて,〜」
「あるいは、不意に目の前に投げ出された脳みそを、絡み合う矢印の山と見なして解きほぐすこと。だから順序は逆転される。定義と公理が与えられ、推論規則を用いて定理が導き出されるわけではなく、相互に作用する網目がまずあり、推論規則が見定められ、定理の形が決定されて、定義と公理が抽出される。」
p.29, 3-4「レフラー球とその基盤図形は,存在を証明されてこそいるものの,実現の困難な高次元構造物として知られていた.」
ある対象が存在することを主張する定理のことを存在定理という.このとき,その存在定理はその対象を構成する具体的な方法を与えるとは限らない.このような存在定理のことを構成的でない存在定理といい,作中の描写から,レフラー球の存在定理は構成的でない存在定理の典型的な例であると推察される.
数学者としては,構成的でない存在定理であってもそこまで不満ではない.なぜなら,実際に構成する方法を議論せずとも数学的な議論を行えるように前もって整備しているから.選択公理から,存在する場合をとってこれるようにすることで,実際の構成方法を回避する.
形式証明の立場からすると,結構嫌いらしい.なぜなら,選択公理を暗黙理に使用している場合が多いため.
物理学者としては,実際にどのように構成すればいいのか,どのような状況であれば実現可能なのかがわからない対象が存在すると言われてもどうしようもなく,意味不明なように感じられる.
p.30, l.1-3「そうしてみるような人におかれては,〜」
卑近なネタ.初期円城塔には見られるが,のちのちは消失していく.
(6.3)
p.32, l.11-「フランシーヌ・フランス,この年二十九歳.専門は認知科学.〜」
学者の専門領域とその学者の人間性は,強く結びつくこともあれば,そうでないこともある.
p.32, l.15-「盲視として知られる現象は,〜」
盲視は実在する現象.“見えていると意識出来ていないのに見えている”という一見矛盾した現象を指す.
p.34, l.4-7「結局のところ,フランシーヌが注目していたのがその種の二段認識過程であったのに対して,二人の出会いからレフラーが着想した理論はそれが更に暴走したところの多段認識過程〜」
認知機構の多重暴走というモチーフは「ムーンシャイン」とも共通し,ウルフラムのテーゼを使い始める気配を漂わせる.また,カントのいう知性の暴走も連想される. いわゆる外挿としてのSFの面白おかしさは,知性が暴走する様を楽しむところに近いかもしれない.
p.34, l.12-「科学的立場としては首肯せざるを得ない見解であり,繰り返して同じ実験結果の得られるものが自然科学の対象である.」
自然科学においては,同じ条件で実験を繰り返したとき,同じ結果が得られることを期待する.同じ結果が得られないのであれば,暗黙的な条件を揃えることが出来なかったために同じ条件を設定出来なかったと考えるのが通常である.
特に物理学はこれを極めて厳密に要請するが,量子力学は実験結果がばらつくことが知られている.これは量子力学においては結果は統計的にしか得られないという量子力学の本質に由来している.量子力学における観測結果は統計的に分散するが,同じ条件で得られた観測結果を集めると,全体としての統計的性質が正しく得られる.
このような自然科学における推論は,帰納的である.
自然を理解するための手法は,帰納的であるべきだ.なぜなら,自然こそが真理であり,真理を説明出来ないものは真に真理を記述する体系ではないから.物理学はまさにこの姿勢を明確にしており,いかに物理学的に美しい体系であっても,その体系によって自然現象を説明出来ないのであれば,直ちにその誤った体系を(万物理論としては)棄却する.
相対論成立以前の解析力学やエーテル理論は真に完成されており,真に美しい完璧な体系であった.しかし,それらは相対論的スケールの物理現象を説明することが出来ず,解析力学は古典力学領域における相対論の近似に甘んじることになり,またエーテル理論は完全に破棄された.
しかし,帰納的な議論のままでは,自然法則を利用する段階に至らない.自然法則を利用するためには,帰納的に得られた自然法則を公理とし,公理的(演繹的)に議論する必要がある.
どの段階で自然科学(物理学)は帰納的議論から公理的議論に移るのだろうか.
一方で,レフラーは公理的である.
数学とか物理とかだと,“定義よりこれは直ちに従う”というフレーズで強制的に正当化する論理としてこれが観測される.
def. 常圧において,水が沸騰する温度は100℃である.
Q. 水が常圧において沸騰するのは何度か?
A. 100℃.定義よりこれは直ちに従う.
p.35, l.5-12「レフラーにおいて異なるのは,〜」
再帰定理は,(ポアンカレの)回帰定理ともいい,ポアンカレによる天体力学上の三体問題の研究の途上で証明された力学系の定理である.三体問題は本質的にカオスであり,一部の特殊な条件下を除いて,解析的に解決することが出来ないことが知られている.
この回帰定理は,人類が初めて見たカオスであり,円城塔が専門としていた複雑系という分野の端緒となる出来事であった.
また,レフラーが統計力学的な認識をしていることが示される.
統計力学は,巨視的な集団がもつ特徴的な物理量を少数集めてくることでその集団の振る舞いをおおまかに記述可能であるという理論である.
素粒子論があらゆる物理量を厳密に集めてくることを要請する体系であるのに対し,統計力学や熱力学はある程度の観測である程度の精度の予言を可能にする.
微視的な再帰定理の実例
(田崎統計のエルゴード仮説のところみたいな例)
巨視的な再帰定理の実例
(頑張る)
p.36, l.3「数学的構造を牽強に付会して妄想を進めるレフラー」
先述の統計力学的認識は異常であることが明言されている.
p.37, l.11-12「女性とは〜」
レフラーとフランシーヌの共同生活で同様の事象が多発したのだろう.レフラーからすれば,レフラーを自身の家に入れたフランシーヌが何度も便器に嵌まり込んだという観測事実から,女性とは男性を家に入れては便器に嵌まり込むものであるという一般則が得られ,これが何段か転倒されて,女性とは便器に嵌まり込むために男性を家に入れるものであるという論理が誕生する.
ここからさらに目的論的になるのは,進化論も辿った道である.この目的論的進化論を批判したのがグールドであった.
(2,4)
p.38, l.4-「その解答の一つを僕は実践させられているわけで,〜」
情報の圧縮,縮約
(コルモゴロフ複雑性の定義)
これこそ定義より直ちに従う類のもの
物理学では縮約記法を多用する
アインシュタインの縮約記法
クロネッカーのデルタ
レヴィ-チヴィタの完全反対称テンソル
余談だが,数理科学と人文科学の最大の違いは,学問の内容を縮約可能か不可能かというところではないかと思う
私はニュートンの原著論文を読んだこともないし,コーシーやシュワルツの原著論文を読んだこともないし,無論ブルバキの原著を読んだこともないのだが,当然ニュートン力学をマスターしているし,微積分もバリバリできるし,構造主義的な数学を十分に理解できる.物理学や数学については,臆することなく論じられる.
逆に,カントやハイデガー,ポパーの原著も読んでおらず,従って彼らの哲学を論じることは出来ない.
一方で,ラッセル,ゲーデルあたりの分析哲学に関しては原著を読んでいないものの,ある程度自信を持って論じられる.
分析哲学系の人はフレーゲ,ラッセルあたりから突然参入してブイブイ言わせている,というような文章を読んだ記憶がある.分析哲学・言語哲学が異質扱いされるのはこれによるらしい.
p.39, l.1-6「この奇妙な過程が,〜」
いまさらだが,変換が無数に連続して繋がっていく様からは,カリー化が連想される p.39, 16-17「こうしてみて,レフラー自身の手になるレフラー論文全集が,いかに超絶技巧を尽くしたものであるか」
“超絶技巧”という言葉は音楽や文学に対する賞賛として使われるが,数学や物理学においても,とんでもなく複雑な計算を天才的な発想で簡単化したことを指してこういうこともある.
フランツ・リストがそう言われるように,ラマヌジャンの意味不明な天啓を指して言うことが多い気がする.
p.40, l.7-8「低次元において面倒でも,むしろ無限次元においての方が定式化の易いものは実は多い.」
これは正しい.
前提として,そもそも無限というものは人間にとって非常に難しい.無限にも“大きさ”(ここでは濃度のこと)に違いがあると数学者が初めて気づいたのは,実に19世紀の末になってからである
学部時代に物理学を学び,のちに哲学に転向した哲学者,大森荘蔵は,まさにこの悪い実例として有名である.大森によれば,アキレスと亀のパラドックス(有限の時間を“無限に”細かく分割すると“運動”は不可能である)は「異常に長い間解決を拒み続けてきた」というが,これは大森が根本的に現代数学・現代物理学を理解出来ていないから生じてしまったミスである.(大森荘蔵『時間と自我』より「刹那仮説とアキレス及び観測問題」)
こんなもの,物理と数学をきちんと学べば(というか,これこそイプシロン-デルタ論法の使い所である),学部一年生であっても十分退けることが可能な簡単なパズルである
と,野家さん(野家啓一,大森荘蔵の弟子の1人,東北大理物卒)が講義で言っていた. 哲学をやるにあたっても,現代科学の成果を勉強してアップデートしなければならない,という文脈だった.大森荘蔵以外にも第一不完全性定理を本義から外れて濫用する人間(おそらくポストモダン思想家たち)を痛烈に批判していたことを補足しておく
そもそも,大森荘蔵は当時の物理学の基礎である相対論と量子論の双方を全く理解出来ていない.そのくせ物理学の哲学的側面にはいっちょ噛みしてきては事故る,みたいなことを繰り返している節がある.哲学としてはともかく,物理学や数学についてはいい迷惑である.
多分これが,物理学に蔓延している哲学者嫌いの原因のひとつだと思う
物理学として有名なところだと,(無限ではないが,)2次元では原子が成立しない一方.1次元と3次元では原子が成立可能なことが挙げられる.(2次元では電磁ポテンシャルが非負になって束縛系を構成できない)
p.40, l.9-13「僕は,無限次元レフラー空間内で,〜」
わからないというのは本当にそう.
確かに一義的な良い定義を与えられるにもかかわらず,その実際の振舞いを記述することが難しい,という事態は,まさにカオスを象徴する振舞いである. (二重振子の説明)
p.41, l.7-8「これがただの連鎖生成される枝分かれではないことが,レフラー空間探索の困難さを生み出している.」
一方向のみに分岐するのであれば,まだ解析は楽だったが,ループがあるという条件が事態を極めて困難なものにしている
p.41, l.16「循環レフラー群」
レフラー球から生成された連鎖が元のレフラー球に戻り,しかも途中分岐がなく孤立して宙に浮かぶレフラー球の集まりのこと.
何かから何かの間に矢印が飛んでおり,それが連鎖の果てに元に戻ってくる,つまり自分自身が自分自身を規律して孤立して宙に浮かぶ系,という円城塔作品に頻出するモチーフの一つの現れ.
直後にある,循環レフラー群をなぜ観測出来るのかという議論は,Self-Reference ENGINEが言及不能であることの議論と等価なはずだが,ここでは“視野の端から見る”ならばセーフという例外規定を設けている.
これは相当意味不明で,これこそが本作におけるSF的に最大の嘘かもしれない
p.42, l.14-15「無限回のレフラー球覗き込みにおいて,距離無限小まで無限回接近することの知られた,無数のレフラー球系列からなる構造物」
$ \varepsilon - \delta論法とは,大学初年度の解析学で突如出現し,高校数学に慣れきっていた大学新入生の関門として立ちはだかる数学における常套手法である
微分の厳密な定義を与えるときに生み出されたもの.導入したのはコーシーらしい.
慣れてしまえばどうということはないのだが,あまりにも犠牲者を出しすぎているため,これに特化した参考書が出されるほどである(しかも複数)
松永秀章, イプシロン・デルタ論法完全攻略, 共立出版
細井勉, はじめて学ぶイプシロン・デルタ, 日本評論社
出版社である共立出版・日本評論社はともに理工系教科書で定評ある出版社であり,粗悪な本ではない
(実際自分も図書館で借りたりしたし)
なお,私は『大学への数学』の学力コンテストで2位をとったことがあるので(高校レベルにおける)数学力の問題ではない
p.42, l.17「レフラー予想」
「全ての繋がった枝は,変換の無限の繰り返しの果てに,一つの合流する」
要するに,レフラー球の連鎖は“盲腸”を持たないことを主張している
否定的証明も肯定的証明も死ぬほどめんどくさいことが察知される
ロンドンの否定的証明によって,全てのレフラー球は必ず循環レフラー群の一部である(=“僕”による証明は停止しない)
証明が停止しないということから,停止性問題が直ちに連想される おそらく因果は逆で,停止性問題をわかりやすく導入すると証明のためにいつか止まれることを願って走り続ける“僕”となる
停止性問題はコルモゴロフ複雑性と深遠な関係をもつ
あとコルモゴロフ複雑性はそもそも自己言及構文を前提としている
p.43, l.14-「昔々神様がいて,〜」
一回しか質問できないとかいうのはスマリヤンの論理パズルが元ネタなように思う,要確認
円城塔は多世界解釈をよく使うが,これは円城塔が多世界解釈を支持していることを意味しないことに注意せよ.円城塔は,多世界解釈は各世界を超越した全世界のエントロピーを導入しなければならないという点で奇妙であり,最初に用いるべき解釈ではないと主張している.
この多世界解釈批判は正当である.
繰り返すが,今どき多世界解釈を持ち出す論者は自身の論理が物理学的に不適当なものであることを自覚せよ.多世界解釈を持ち出さなくてはならないような現象は観測されておらず,この世界の物理現象はコペンハーゲン解釈のみで必要十分である.
逆に,読者におかれては,標準的な解釈であるコペンハーゲン解釈を採用した標準的な教科書を用いることを要請する.歴史的な経緯を説明する文脈以外において,コペンハーゲン解釈以外は有害でしかない
多世界解釈はテキトーなこと言っても(物理学的にも,かつSF的にも)許されることが多い.なぜなら,多世界解釈自体がテキトーな理論なので.あの時選ばなかった選択肢,ありえたかもしれない私,というモチーフを多世界解釈は強力に許す.このような後悔は,歳をとればとるほど増える一方であろう.これを自然に導入するのに,多世界解釈は極めて便利である
多世界解釈は本質的にSFであるから,導入した瞬間にSFジャンルに無条件で組み入れることが可能
(7,5)
p.44, 10-13「何かが見えるということは,〜」
p.45, l.7-「十八世紀,分子論の立役者の一人であるジョン・ドルトンは,〜」
未確認.要確認
自身の観測が偏向していることに気づくことは難しい.
このような無自覚の観測バイアスはあらゆる科学が立ち向かわなければいけないものだが,物理学はその観測理論の特性を極めてよく把握していることが知られている.
観測理論としての量子力学,および物理法則が厳密に数学に従うと言う事実に立脚しているように思う
物理学が数学に従うことに関する疑問は,ウィグナーが哲学的に提起している
曲がった宇宙の内部から宇宙が曲がっていることはガウスの脅威の定理から導かれる p.46, l.11-14「そうは言ってもわたしたちは違う人間のなのだし,今こうして実感しているものを取り出して並べてみることはできない.〜」
(カントの議論の説明)
p.47, l.15-p.48, l.5「独我論と呼ばれる〜」
自分以外の自由意志を認めない異常に強固な立場の経験論.
直前の客観論と独我論の対立は,物理学における階層性に似ている.古典力学と相対論は相容れないが,その相対論的極限/古典極限で両者は一致する
つまり,どちらも対象を観測するための観測理論であるから,その過程が多少異なろうが,同じものを観測するのであれば観測結果は一致するであろうと言うこと
レフラー球による観測はレフラーの定理の否定的解決(以後,これを作中の言葉を用いてロンドンの構造不一致定理と言う.)より,いかなる経路によってもいずれ任意の地点を経由する
レフラー球をどのように解釈するか(客観論的,独我論的)によって到達可能な範囲は変わらないと言うことを指しているか?
現代の物理学者がとる哲学的態度は経験論的であるというが,経験論のヒュームの言っていることを見ると,流石にやりすぎでこれでは何もいえないじゃないか,と言う感じ
火に手をかざして火傷したとき,確実に言えるのは先ほど火で手を焼いてしまったと言うことだけであり,次に火に手をかざしたとき火傷するかどうかはわからない,というもの
同じ条件で試行回数を重ねて同じ結果が得られるなら,そういうものなのだろうとして法則を見出し,それが正しい形で記述されているかどうかはその法則の予言を確かめることで決着をつける,というのがいい落とし所なのではないか
ちなみに,特殊相対論は即座に受け入れられたが,一般相対論はかなり最近になるまで正しいかどうか確かめられていない部分があった.
GPSは相対論的補正をもろに受けるので,補正項が入っている.なお,GPSが依存する静止衛星にかかる相対論的効果は,特殊相対論(相対速度)によるものより一般相対論(重力)によるもののほうが1桁ほど大きい
一般相対論が正しいことが完全に決着したのが重力波の観測(2016)
一応クエーサーの観測で重力レンズ効果が発見されていたことから,一般相対論も含めて相対論は正しいとするのが標準的な見解だった
数式をコネコネしていた人々はいたが,いい成果は挙がっていない
相対論は間違っていると主張する人は無論論外である
p.49, l.3-4「つまるところ自意識とは,自意識を担う一群のニューロンの発火パターンであり,その一群から手を伸ばされているニューロンの〜」
p.49, l.8-9「全てを見張るには全てを見張らねばならず,そうすると全てを見張るものを見張る見張りが必要ということになって,集合論的にも不都合が発生する.」
観測者の観測者の...と続き,自分自身を迂遠に観測する系が誕生する.これは循環レフラー群であり,単調に繋がった円環状の矢印であり,オットー・レスラーの内在物理学における観測である 円城塔の小説の根底には,このような観測行為と,このような観測行為が本質的に逃れられない自己言及がある
そもそも,自己言及(恒等変換)を禁止するようなルールは相当窮屈である(群,体,環,圏が使えない)のだから,自己言及を許すルールを採用しようというのは至って普通の話であるように思う
観測理論としての量子力学は,ハイゼンベルク切断によって観測者と観測対象を独立したものとして扱っているように思われる.少なくとも,加速器物理をやっているときに観測者と対象を特別に意識したことはなかった 直後の,「まあこのあたりまでが自分の手に負える自分である」というのは,このハイゼンベルク切断を指している
p.49, l.13-「しかしでは何故,一群の自意識ニューロンが,自意識という機能を持っているのかという問いにこの整理は答えていない.〜」
その通り.しかし,これが物理学(複雑系)が答えられる限界ではないか?
p.50, l.7-8「そのへんに落ちている平凡なニューロンを適当に自意識様に配置するだけで意識が生まれるとは思えない.」
p.50, 14-「素粒子の究極理論が,〜」
残念だがその通り.古代ギリシアの昔から,物質の最小単位であると考えられていたものが更に小さな要素から成る内部構造を持つ粒子であると判明してきた例は多々ある
四元素説 -> 分子説 -> 原子説 -> 電子・核子 -> 標準模型
いずれの時代も,なんか最小単位の種類が多すぎるということで内部構造が疑われ,実際に内部構造が発見されるという過程を経ている
現状,標準模型では粒子が足りないので,少なくとももうひとつは対称性(超対称性)があると考えられているが,その超対称性としてどのような群をおくかについては結論が出ていない
現状の実験では得られないパラメータ領域で初めて決着がつく話なので,新しい加速器が作られないことにはどうしようもない
なお,現状ではクオークとレプトンに内部構造があるという兆候は見られていない
p.51, l.3-4「理論なるものは,理論の中の構成によってその理論の限界を知る構成をとって初めて理論たりうるというのがレフラーの気分である.」
内在物理学.
われわれが触れられるのはインターフェイスであり,その内部を知ることはない
p.51, l.4「神は全体的構成に宿る.」
無論,神は細部に宿るという言葉の裏返しだが,これこそが統計力学の最大の利点である
細部を知ることなく,マクロに全体を知ることによって,その全体の振舞いを統計的に知ることが出来る.全体が統計力学的な法則に束縛されているが故に,われわれは統計力学的に予言をすることが出来る
そんな感じに構成すればそんな感じに振舞う,というアバウトさが統計力学の魅力である
p.51, l.16「超高次元力学系の挙動」
統計力学で記述した系の振舞いのこと.統計力学では,N個の粒子からなる3次元系を,1個の粒子からなる3N次元系の問題に還元して考える.統計力学では,Nは1より十分大きく,3N次元は超高次元と言える.
無論,統計力学的な系を直観的に把握できる人間など存在しない(はず).
(3,6)
p.52, l.12「レフラーの専門が,定理自動証明と呼ばれる数学分野〜」
数学と呼ばれる体系は,極めて厳密な体系であり,実のところ,証明の自動化はある程度可能である.
証明プロセスが停止したならば,その命題が証明されたことになる.恐ろしいことに,世の中には,正しいのだが,証明プロセスが停止しない命題が知られている.これが停止性問題である. 停止性問題は,ゲーデルの第一不完全性定理と等価であることが知られており,コルモゴロフ複雑性と深遠な関係にある. 慣れてしまえば,ああいつもセットで見かける連中ね,という感覚になってくる
(野家啓一,中村融,山岸真の思想が入り混じった結果,)相対論,量子論,ラッセルの逆理によって始まった20世紀は,ブルバキやアインシュタインら天才たちによって急速に形式化と構造化がなされ,相対論と量子論を駆使した原爆の登場,第一不完全性定理と等価な停止性問題による電子計算機の登場によって一気に花開き,サイバーパンクの先に複雑系が咲き誇る.諸学の危機は常に諸学の基礎にあり,20世紀における科学の急進的な発展を支え,それにSFは呼応したのだった
という妄想をするなど
ちなみに,定理自動証明と形式証明は似ているが異なる分野である
定理自動証明は機械に自動的に証明させようという分野.大量に排出されるクズ証明からいいものを拾う.
形式証明は,人間が機械支援を受けて丁寧に証明を進めようという分野.目指すゴールは決まっていて,それを丁寧に埋めていく.
p.53, l.4「公理と推論規則が与えられて,〜」
p.53, l.14-15「トルネドとある種の形式系に同型写像が成り立つ」
なんか相当強いことを言っている気がする,要検討
というか,真理を求めて迷路を彷徨うっていうのは,ボルヘス「バベルの図書館」にほかならないじゃないか 今回の間抜け案件,ここにきて発覚
そこには確かに真理があるのだが,それに辿り着くことはない,という話
p.58, l.8「認識と真理の共進化〜」
共進化自体は物理学でも使う(物質と宇宙の共進化)が,少なくとも真理は進化しないのではないか.逆に,真理が進化しうるという主張が本作のSF的な嘘である
p.59, l.4-5「その成果は論文集の中には登場しておらず,自伝に埋もれてあまり目立たぬ一挿話ほどのものに留まっている.」
あるある,と言っていいのだろうか?
少なくとも,ディラックやファインマンについては,論文よりもエッセイや教科書に天才の天才たる所以であるような直感的な洞察が唐突に書かれていたりしてギョッとする
あとは,教授の退官記念の最終講義で,確かに面白いし本質的なのだが,物理学としては到底扱えないようなSF的なアイデアや宗教的信念(マジ宗教ではなく,科学では現状探索不能だが,もしそうだとしたら美しい理論になるであろう信念のこと.後述のアティヤの夢や,ディラックの大数仮説がこれの実例)がうかがえてものすごく面白かったりする (8,7)
p.59, l.6「たとえるならその儀式は,〜」
p.60, l.2-3「もしくは想像力と大雑把に呼ばれる力が行う仕事に,発熱分を加えたエネルギー.」
計算機は,熱を生じることなく計算結果を取り出すことができない.
p.60, l.「モラン変換」
実在する数学的操作.盲目の数学者,ベルナール・モランによって構成された,三次元球殻をなめらかに裏返しにする操作のこと.この操作の途中で,球殻はボーイ曲面(Boy's surface)を経由する.
変換の途中で酷く絡み合った複雑な形状,というのがボーイ曲面が提示する文芸的メタファー?
レフラー球による変換を積み重ねた結果,複雑に入り組んだ形状は.実のところ盲腸を持たない(ロンドンの構造不一致定理)
これと少年の表面,という直訳を織り交ぜる.レフラーの内部機構は真に不明であり,その表層がどのように振舞うかという観測を積み重ねることでしかレフラーを理解できない.我々が感得できるのは,レフラーという少年の糖衣表面のみである
Morin変換の前後では表裏が裏返るだけだから,表と裏を1回ずつなぞって元に戻らざるを得ず,しかも記述は必要十分である必要があるから自己完結的な物語構造が強く要請される
Boy曲面を2次元(紙面)へと切開していくとメビウスの帯になり,自然な物語を得るに至る
紙面に向けて切開する,というのは読み過ぎだが,そう読めるので仕方がないことである
出発点と終着点が定まっていて,その間に複数の(数学的)経路があるような場合の数学としてモデル圏が挙げられる また,レフラー球が分岐して合流するという描写から,レフラー球の連鎖をラムダ計算によってよく記述出来る可能性が高い.チャーチ-ロッサー性(合流性)がまさにこれ. p.62, l.7「重々帝網なるを即身と名づく」
空海『即身成仏義』の一節.
帝釈天のお堂には縦横無尽に糸が張り巡らされ,その交差点には珠玉があり,珠玉同士が互いの姿を幾重にも反射して映し出している.この様こそが,私たちの世界そのものにほかならない.
『華厳経』の思想をよく反映したものらしい
円城塔作品には,目の前に投げ出された酷く絡み合った網目という表現が頻出する.これを私は物理学的にしか捉えていなかったが,これは円城塔の仏教からの影響をも反映したものであったらしい
p.65, l.3「数学的構造だからといって自分が数学を理解しているというつもりはない.」
p.65, l.16「疑う暇があるなら研究せよ」
その通り.
ボスから与えられた助言は,自明なものであっても,強く刻み込まれるものだ
私の場合は,「Histogram!」と「Energy!」だった
意訳すると,ヒストグラムを書いて背景事象を予測して評価しろ,重心系エネルギーから予想されるダイアグラムを見せろ,となる
p.66, l.14「リーマン予想に手を出すとはあいつも焼きが回ったらしい〜」
(リーマン予想の説明)
リーマン予想はその予想の記述に反して極めて難しく,数多の数学者が挑み,そして敗れ去っていった史上最大の難問のひとつと言っていいだろう.
現代においては,リーマン予想を真面目に証明しようということ自体が不毛なこととされており,確かに数学上の最重要問題なのだが,それ以上に難しすぎるという評価をされている.
逆に,これに挑もうというのは,自分のキャリアをかなぐり捨て発狂した数学者か,数学的能力を失って自省が効かなくなって発狂した数学者か,自身の数学的能力が足りていないということに気づかない無能かのいずれかである.
で,2018年末,フィールズ賞を受賞した大数学者であるアティヤが,物理学における微細構造定数は数学的に決定可能であり,この計算過程でリーマン予想を肯定的に証明したと主張する論文を発表した.
結論,そもそもの大前提が派手に間違っており,論外であるとしてあのアティヤがついにボケ切ったという容赦ない評価が下され,偉大な数学者としてのアティヤは失われたとされた.
アティヤは奇数位数定理(ファイト-トンプソンの定理)を極めて簡潔に証明したと主張しつつあからさまな手違いが見受けられるなど,この数年初歩的なミスが多く指摘されており,既に数学者としての能力を喪失しつつあると評価されていた.このリーマン予想事件でアティヤは完全に名誉と信頼を喪失し,翌2019年1月に没した. 件の論文は,英王立協会誌に投稿されていたものの,著者死没により無事撤回された
それはそれとして,アティヤは未来永劫こういう生意気な若造に馬鹿にされ続けるだろう
アティヤがイカれていたのはさておき,アティヤは微細構造定数が数学的に決定可能であり,基本相互作用に関わる定数もまた全て数学的に決定可能であり,それらは全て数学的構造から自然に出るものであると夢見ていた.このこと自体は,(元)素粒子物理学者としての私を心躍らせるものであり,物理学すら数学に還元可能であるという世界観(数学帝国主義)は非常に野心的で興味深いものである.
基本相互作用は数学的に決定可能であるというアティヤの主張を,アティヤの夢と呼ぶことにしよう. リーマン予想を証明した,という主張は,常温超伝導体を発見した,第一種永久機関を発明した,常温核融合を成功させた,などという主張と同列となってしまっている
いっとき,常温超伝導体が開発されたという話題がAIエンジニア界隈で過剰に持ち上げられていたが,私からすれば4,5年に1人はイカれ物理学者がイカれ論文を出しては学位を剥奪されているのを見ていたため,AIエンジニアといえども所詮はこんな程度なのかと思った記憶がある
超伝導体があれば,機械学習が馬鹿みたいに電気を使うことが解決されると思ったのだろうか?
これについては,超伝導であってもそもそも計算自体が原理的にエネルギーを消費する(ランダウアーの原理)ものなんだから解決になってないのでは,と まあ,ここら辺はあまり人のことを言えたものではない
エネルギーは消費しないが,計算速度がかなり遅いのでそこがネック
かつてはフェルマー-ワイルズの定理(フェルマーの最終予想,ワイルズが肯定的に証明),ポアンカレ-ペレルマンの定理(ポアンカレ予想,ペレルマンが肯定的に証明)などもこの同列にあったが,これらは無事正常に証明された
あまり言いたくないが,ABC予想もだめな方に列席されそうになっていて非常に判断が難しい
少なくとも,お行儀がすこぶる悪いのは確か
リーマン予想は証明されていないが,一般の物質が熱平衡するかどうかは決定不能であり,これが停止性問題と等価であり,しかもリーマン予想が偽のとき,かつそのときに限り,熱平衡化する物体が存在するということが知られている.
これはリーマン予想の証明ではないことに注意せよ.
(4,8)
p.67, l.4-「どこかの余白にあなたのお好みの数式を〜」
フェルマーがフェルマーの最終予想について書いた有名な文言,「わたしは驚くべき事実を発見したが,それを書くにはこの余白は狭すぎる」というものを意識しているか
人には誰だって好みの数式があるものだ
当然,偽である
p.67, l.13-14「奴らは基盤なしに引きこもってぐるぐる回っているだけの自閉的妄想だが,それだけに摂動にはえらく強い.」
循環レフラー群が無限連鎖する自己規律によって孤立して宙に浮く系であるという指摘を補強するものである.
(摂動の説明,天体の計算,量子力学における摂動論,本質的にカオス)
重力多体系における摂動計算を高速で行う特化型計算機として東大総合文化研究科で開発されたのがGRAPEシリーズである.
まあ,要するに,外からの影響には脆弱だが,そこにあってしまったがためにあり続ける程度には強固な系であるということ
p.68, l.6「レフラーの野望」
アティヤの夢,ディラックの大数仮説の同類のようなもの
なお,1と1/2+1/4+1/8+...は一致する
p.68, l.12「誰かと,誰かを想像することを一致させる極限.」
圏論でこれを示せたはず.自然変換を文芸的に解釈するとこうなるはず